〜現代の書籍から〜


〜BlKERS STATlON 2007 10月号 123-127p より〜


























を持つGS250FWの乾燥重量が157kgで、それと同じ4サイクル4気筒エンジンを持ち、しかも排気量を1.6倍の400ccとした水冷の車両が156kgの目標値だから、一見理屈に合いそうにない。

(2)心算あり

1976年の終わりごろ、スズキは日本のオートバイ生産4社中、4サイクルを手がける最後のメーカーとしてGS750とGS400の生産を開始した。私たち設計開発陣にとって4サイクルは初経験であったから、特に新技術を投入することをせずに、1975年ごろ世間一般にあった4サイクルエンジンをよく調査して、そのころの技術"で、手堅く、かつ高品質を念頭に入れて設計した。幸いGSシリーズは高い評価を受けたが、、そのころの技術〃を今の知識で見ると、1960年代からのものである。1980年代当初までは、すべての2輪車メーカーが、共通して20年も前の技術を踏襲していたのだ。我々スズキが20年前の技術から足を踏み出した第一歩を4バルブのTSCCとすると、二歩目が軽量化といえるかもしれない。22kg軽くしようとする軽量化設計も立派な新技術だ。20年前に比べれば材料もグレードアップしているし、熱処理や鍛造、鋳造を含めた製造技術も大幅に向上している。無論、設計技法も大きく進歩した。部品の強度計算も、20年前の古典的な材料力学法から大きく進んで、コンピュータによるシミュレーション解析の導入により、より正確な設計が可能となった。このため無駄なぜい肉の発見が可能となり、それらを取り除けば20%くらいの軽量化は可能ではなかろうかとの思いがあったのである。2輪車を構成する部品の持つ強度はコンピュータシミュレーションによって知ることができる。スズキの場合、1980年ごろにはコンピュータシミュレーション技術はほぼ確立されていて、業界の中でも導入としては早いほうであった。そのひとつに有限要素法(FEM:FiniteElementMethod)と呼ばれるコンピュータによる応力解析方法があり、この計算技法を用いれば、実際に品物を造って実験とテストを繰り返さなくても最適設計ができる。ある部品に所定の力が加わったとき、壊れるか壊れないか、壊れるとすると、その場所はどこからか。壊れないときには、丈夫すぎる部分はどこかがすぐにわかる。力の加わる度合いを応力(Stress)と呼ぶ。ある部品に所定の力が加わったとき、場所によって応力は均一ではない。過大応力の個所は壊れるし、過小応力の部分は無駄が多いことになる。これらはコンピュータグラフィックとして画面にカラー表示されるので、ひと目でその適否を判断することができる。過大応力部分は補強し、過小応力部分は除肉して軽い部品の形状を求めることができる。このことを、実際に部品を造らないで行うので、我々は、机上実験〃とも称していた。
風呂は2〜3度かき混ぜて沸かす


(1)184年は軽量化で勝負

1983年になったころ、ホンダさんがエンジン最高馬力の自主規制をすると発表された。高出力競争に歯止めをかけないと安全上も好ましくないというのがその主旨であった。ホンダさんの案を各排気量ごとに見ても、それぞれの値は決して低くはなかった。走りを楽しむには充分である。オートバイメーカー問の野放しの馬力競争は、ユーザーにもメーカーの将来にとってもよいことではないと考え、スズキはホンダさんの意見に同調した。ヤマハとカワサキも同様であり、数値の確認・検討の後、国内4メーカーの賛成によって、日本国内における排気量ごとの最高出力自主規制がスタートしたのである。具体的には、50cc:7.2ps、125cc:22ps、250cc:45ps、400cc:59ps、750cc:77psであり、その中間の排気量は上記の値に比例して決めようということになった。この自主規制は2007年になって撤廃されたが、今になって思うと、数年ごとに最高出力の数値を見直すという項目を入れておくべきだった。ちょうどそのころ、一発必中狙いの商品の第2弾として、GSX-Rが企画されていた。エンジンはDOHC4バルブの水冷並列4気筒で排気量は400cc、
2サイクルのRG250rがスプリントレーサーならGSX-Rは耐久レーサーをイメージしたもので、その原形は鈴鹿8時間耐久レース優勝車のヨシムラ・スズキGS1000Rとすることにした。当然GSX-Rは走りを追求したモデルだが、エンジンの最高出力は4メーカーの自主規制による59psを上限とせざるを得ない。事前にわかっていたことではあるが、400cc車は4社とも59psに各メーカーが揃ってしまう。そうなるとエンジン性能ではライバルに差をつけられない。しかし解決は難しくない。軽量化によって、走り"の面での差をつければいいのだ。軽ければ、走る、止まる、曲がるの3つの基本機能すべてに有利となる。さらに、同じ走りをするなら燃料消費も少なくてすむ。前向きに考えれば、軽いぶんだけ1台に使う材料費も安くなるはずだ。1982〜83年当時、各社400ccクラスの公表平均乾燥重量は188kgほどだった。スズキのGSX400FWは軽いほうだったが、それでも178kgもあったから、新設計のGSX-Rはそれよりも22kg軽くした156kgを乾燥重量の目標値とした。GSX-Rを担当するプロジェクトチームのメンバーたちに、半分命令の形で私はこの数字を提案した。するとプロジェクトリーダーが猛然と反発してきた。「現行のものよりも22kg、12.4%も軽く設計できるわけがない」と。この発言も無理からぬことだ。当時あった250cc4サイクル4気筒空冷エンジン



かりやすくしたもの。数字の小さいほうがよく走る)比較しても、GSX400FWの3kg台半ばに対し、GSX-Rのそれは2kg台半ばと圧倒的に小さく、当然ライバル他社の製品にも大きく差をつけた。ライバルメーカーも含め、4社の400ccクラスの最大出力は自主規制で59馬力だ。そんな中で、車重が150kg台のGSX-Rは、その運動能力において他を圧倒した。軽量化でまた2輪車業界の流れを変えられたことが、素直にうれしかった。

(4)海外向けのヒット商品を3つ造ろう

1983年になるとHY戦争も終局を迎えた。スズキは'83年のRG250T、'84年のGSX-Rのヒットでなんとかしのぐことができ、メーカーとしてのイメージも少し上がってきたと感ずるようになった。1984年1月になって、私の仕事は、国内重点から海外向けの商品開発に重きが置かれることになった。北米やヨーロッパ市場で750ccクラス以上の大型2輪車が遅れをとっていたからである。そこで私は、当時の2輪車輸出担当部門と次のような約束をした。、2輪車の飛び切りよく売れる商品をアメリカ向けにひとつ、ヨーロッパ向けにひとつ、4輪バギー車にひとつ、合計3つのヒット商品を必ず開発する〃だった。それらのヒット作が、他のスズキの商品販売も引っ張ってくれることを期待してのことである。それからというもの、'74年と75年のGPレースマシーン開発並みの`忙しさが私を襲ってきた。特にヨーロッパのディーラーからは750ccクラスのスーパースポーツバイクの要求が強かった。1984年1月、まず私はそれに着手した。開発に入る前にヨーロッパの状況を調べてみると、次の3点が重要であることがつかめた。イ)ヨーロッパ市場での750ccクラスの出力は85〜95馬力であるロ)24時間耐久レースなどは750ccクラスが主力であるハ)安全上、出力規制をしている国があり、フランスやドイツでは2輪車の最高出力を100馬力以下としている。この時点で、これらの3つのポイントのすべてで他メーカーのスボーツモデルを圧倒する750ccのバイクはどのメーカーにもなかったから、そんな750ccのスーパースポーツバイクを開発すればヒット間違いなしとの確信を得た。商品企画部門では、すでに商品企画検討が進められていたが、前記3ポイントをすべて満たしてはいなかった。そこで新750ccの開発目標として、最高出力は規制いっぱいの100馬力。24時間耐久レースでよい成績をあげるために目標車両重量を176kgとする、のふたつを決めた。100馬力で176kgというだけでもすごいが、ヨシムラなどのチューニングアップによって、出力が1.5倍程度にできるようにしておけば、耐久レースやTTフォーミュラ1レースに出場する多くのファンにも買ってもらえるのは間違いない。
A:GSX400FW用:298g,B:GSX-R用1次試作:256g、C:GSX-R用生産品:194g,D:GSX-R用超軽量試作品:166g。Cの耐久テスト('83年10月下旬)合格後、さらに軽いDを試作。これも見事耐久テストに合格したが、壊れないことを重視したためか、採用は見送られた。
20年前に適当とされた設計内容を、FEM技法などでチェックすると、無駄な部分がいっぱいみつかる。部品が大きすぎたり、無駄な肉がついていたりして、全部の部品が重量を重くしているのだ。GSX-Rのコネクティングロッドの軽量化に際し、従来のものをFEM解析してみると、強い部分と弱い部分がアンバランスに配置されていることがわかった。そこで私は、“コンロッド全体にわたり応力を限界値近くに合わせて、アンバランスをなくして軽量化する”方針を打ち出した。上の写真はそのときのもので、左端が従来品、右から2番目が軽量化品で34.9%も軽くすることができた。このような考え方でGSX-R全体を新設計すれば、22kg軽減して、156kgの車重を実現することは可能なはずだ、との心算が私にはあった。

(3)このごろの若い者はよくやるなあ

GSX-Rの乾燥重量の目標値を156kgとした時点から、若い設計者たちの苦闘が始まった。当時とすればあまりにも厳しい減量値だったので、すべての部品別に減量値を割りつけられた設計者たちは、最初は大いに戸惑ったようだ。設計の仕事における内容はふたつに分けられる。すなわち、部品の配置を決めることと、個々の部品の形状を決める、である。部品の配置を決めるに当たっては、イ)無駄なく整然と並べるロ)走るために不要な部品を付けず、部品の点数をできるだけ少なくするハ)部品の大きさは最小限にする二)部品どうしのスキマは0.1ミリ単位で、場所の無駄をなくし〃全体をスリムに小型にする、の4つを守った。部品の形状を決めるに当たっては、イ)部品に加わる応力分布をできるだけ均一にするロ)応力の大きさは材料の持つ耐力の70〜80%にするなどをして一切の無駄をなくした。それまでの設計では耐力の20〜30%しか使ってないので、そのぶ
ん重量がかさんでいる。このように設計をし、試作された部品を手にするとあまりのスリム化にちょっとびっくりするくらいのものだった。それを見ただれかが、「お〜寒〜い」と言ったほどだ。GSX-R担当の設計者たちは、上記のようなことを考えながら、当然だが、機能と製造コストのことも考慮に入れて、極短期間で設計を完了させた。3カ月ほど過ぎてGSX-Rの試作車が組み立てられた。プロジェクトリーダーはさっそく試作車を秤に乗せた。なんと秤の針は156kgをわずかに割った。それは無理ですと彼らが言った156kgよりも軽くできたのである。156kgの実現に際して、私は実際の作業は何もしていない。ただ厳しいといわれる目標値を示し、設計に有限要素法と呼ばれる計算技法を取り入れ、若い技術者たちにそれが可能な環境を作ってあげただけだ。限界値はどこにあるのかとの判断に彼らが迷ったときのみ、決断を私が下したが、156kgを実現させたのは若い設計者たちだ。このとき私はつくづく思った。、このごろの若い者はよくやる〃と。軽量、高剛性のアルミフレーム、水冷並列4気筒4バルブ400cc、最高出力59ps/11000rpm、乾燥重量156kgのGSX-Rは1984年3月に発売された。デュアルヘッドライトを装備し、耐久レーサーイメージのスタイルを持つこのモデルは、RG250Tに続いて国内で大ヒットした。’84年の3月にGSX-Rを発売して間もなく、あるライバルメーカーの人に私は声をかけられた。「横内さん、GSX-Rはホントにそんなに軽いんですか」と。すぐさま私は、「お疑いでしたら、買って測ってみてください」とやり返した。後日、そのメーカーは3台も買って試験をしたという。ヒットする要因は数多くあったが、何といっても車体の軽さからくるメリットが大きかった。それまでのGSX400FWとのパワーウェイトレシオ(車重を馬力で割り、lpsが何kgを動かすかをわ




(5)真冬の水遊び

100馬力、176kgのレーサーレプリカであるだけでなく、耐久レース用マシーンに成長する可能性をも持ったGSX-R750なのだから、開発コンセプトも格好よくなくてはだめだ。そこで、蝋サーキットから出て、サーキットに戻る"(BornintheCircuit,BacktotheCirrcuit)とした。これ以上の素晴らしい商品コンセプトはないし、高い目標値にも納得がいこうというものだ。車重を176kgにするにはエンジン重量を400cc並みにしなければならない。そこで最初に出てきた問題がエンジンの冷却方式だった。エンジンの冷却方式には空冷と水冷の2とおりしかない。空冷式だと軽量化は容易だが、100馬力エンジンには冷却不足だしましてや百数十馬力にチューニングアップするとなおさら冷却に心配が出る。水冷式にすれば冷却の問題は解決するが、この当時の我々の技術では、エンジンのサイズと重量を目標値まで削れそうになかった。あちらが立てばこちらが立たずである。二者択一でなく、何とか、第3の方法"はないものかと日々`悩んだ。そんなころ、ふとしたことから第2次世界大戦で日本が誇った零戦を負かしたアメリカの戦闘機P51ムスタングが社内で話題となった。P51は第2次世界大戦における最高のレシプロエンジン戦闘機として評価されているという。
車名にあえて排気量を示す400の文字を入れず、GSX-Rのネーミングで1984年3月に市販されたこのモデルは、RG250Tに続いて日本国内で大ヒットした。エンジンは、ボア×ストローク:53×45.2mmで排気量398.9cc・圧縮比は11.3:1で、最高出力:59ps/11000rpm、最大トルク:4.0kg-m/9000rpm・ホイールベースは1425mm。キャスターは20年以上も前の車両だから27.25度で、トレールは96mm。タイヤ
はうロントのみ16インチでリアは18.カタログによる乾燥重量は152kgと、本文中の156kgより4kg軽い。これはHY戦争と前後して、日本のメーカーが少しずつ過少表示を始めたことにスズキも倣ったためである。今や、海外メーカーも含めてこうしたやり方が一般的となった。価格は62万9000円で4メーカーの同クラス車中、最も高価だったが、マニアは競ってGSX-Rを購入した。魅力あるものは売れたのである。




■本文にある、、真冬の水遊び"の写真は、残念ながら残っていない。開発を急ぐ中、カメラを持ち出す余裕などなかったにちがいあるまい。その代わりに、GSX-R750のエンジンが完成したあと、同じように水での目視テストをしているワンカットをお見せする。ホースを持って、カバーを外したシリンダーヘッドの上面に水をかけているのは横内さんだ。半袖姿だから、さしずめ、、真夏の水遊び''である。
■左の図は、8本のノズルで大量のオイルをシリンダーヘッド上面に噴射したのち、それが下方に落ちる様子を示す。先端が矢印となった左右の曲がった2本が本文中にあるパイプのところで、中央のまっすぐな2本はスタッドボルト用の穴を拡大してオイル通路としたものである。上の写真はGSX-R750のシリンダーヘッドそのもの。
■GSX-R(400)を水冷で造りながらGSX-R750を油冷としたのは、1983年当時のスズキの技術では、エンジン重量の大幅な軽量化に加えて、大きさ、特に前後長を小さくできなかったことによる。両車のホイールベースを比べるとそれがわかる。GSX-R(400)の1425mmに対して、GSX-R750は1430mmしかない。理論的には、高出力な750ccにこそ、長いスイングアームが欲しかったはずである。つまり、GSX-R(400)と同等の重さでより小さいエンジンがGSX-R750には求められたのだ。これを短期間で造るのはさすがに無理で、油冷が選択されたが、油冷ファンにとって、これは幸運であった。間隔の狭い短めのフインがシャープなこのパワーユニットは、並列4気筒エンジン史の中でも、最も美しく、走って官能的といえるからだ。



エンジンの冷却方式に話を向けると、だれかが、「あれは液冷だよ」と言った。私は、液冷だよ〃の、、液〃の一語に気持ちを奪われた。そしてこう考えた。水冷式の水は液の中のひとつにしかすぎない。水以外の液はないものかと。すると、エンジンの中には潤滑用のオイルがあるではないか。これも、液〃だ。このように、オイルを使った、液冷エンジン"はできないものかというふうに発展していったのである。はじめのうちは水冷式のウォータージャケット(水の通路)にオイルを流すようなことを考えていた。しかしこれはばかげたことであると、しばらくして気がついた。水冷式の場合、冷却水はウォータージャケットを流れ、エンジンオイルとは分離されている。水とオイルが混じってはまずいからだ。その延長で構造を考えたので、オイルジャケットをどうしようかと悩んだのだが、水と違ってエンジンオイルはエンジンと一体のものであって、水のように分離する必要は一切ない。ならば、シリンダーヘッド燃焼室の上部に冷えたオイルを思いつきりブッかけてやればよいではないか。私たちはそれまであったGSX750EFの空冷式のシリンダーヘッドを洗車場に持ち込んで、水道の水を上から恩いつきりブッかけて見た。そして、ウン、これはよく冷えそうだ"と直感した。水冷式は燃焼室上部のごく限られた場所にしか水を流せないが、オイルだったら燃焼室上部を含めたシリンダーヘッド上面全体に大量にかけてやることができる。だが、大量のオイルをどうやってエンジン内に返すのか。次のテーマが出た。そこでGSX750EFの空冷ヘッドを、アルミの板を溶接したり、穴を開けたり、タガネで削ったりして、オイルのエンジンへの戻しの通路を探した。これらの手作業は、あのGPメカニックの岡本満にやってもらった。それまでのエンジンでは、動弁系を潤滑したオイルのオイルパンヘの戻しは、タイミングチェーンの脇などから行っていたが、なにしろ今度のはオイルの量が圧倒的に多いので、今までの戻し方式ではまずいのである。大量のオイルがタイミングチェーンや高速で回転しているクランクシャフトに触れると、オイルは激しく撹拝され、泡立ちが起き、温度も上昇する。おまけに撹拝抵抗でメカニカルロスが増えて出力すらも低下。当然、燃料消費も多くなるし、オイルの寿命も短くなる。これらがまずいのだ。そこで、オイルをエンジンの外側から戻そうということになり、シリンダー前部に2本のオイル戻し用の太いパイプを設け、シリンダーヘッドを冷却した大量のオイルをそこから直接オイルバンに落とすことにした。これで全部解決できた。私たちは、空冷のエンジンを持って来て、切ったり張ったりしながら、液の動きを目で確かめつつ、解決策を見いだしたわけである。だが、エンジンオイルそのものを使うわけにはいかないので、 水道の蛇口で水量を調整し、ホースの先を指でつまんで水の流速を変えながら油冷システムをモノにしていった。'84年1月中旬ごろのことだ。私たちは下半身ズブ濡れになってこれをやった。作業をしているときは夢中になっていたので何ともなかったが、終わるととても寒かった。私たちはこれを、真冬の水遊び〃と呼んだ。

(6)発想は婆ちゃんの教えから

オイル経路の検討に続いて、抽冷エンジンはエンジン冷却の』性能面で本当に成立するのか、冷却性能は充分か、重量は軽くできるのか、製造コストはどうかなど、次のステップに移った。冷却性能に関しては、熱の授受計算をした。オイルの比熱は0.1で水の1.0に比べて小さい。そこでその他の条件を同じにして、空冷式、油冷式、そして水冷式の熱の授受計算をすると、油冷は水冷式の水と同じ量のオイルを送って水冷式の1/10の冷却性能との結果を得た。1/10というのが気がかりで、これは補ってやらねばいけない。そこで、水冷式にも欠点があるから、それを油冷式でカバーすればよいと考えた。欠点はふたつ。最も冷やしたい燃焼室上部の水の流速が比較的遅いこと、燃焼室上部には吸排気バルブが配置されているうえ中央にはスパークプラグもあるので冷却面積が極端に小さい、これらである。まず、水冷式における燃焼室上部の冷却水の流速だが、これは毎秒3〜4mくらいと遅い。遅いと燃焼室上面のシリンダーヘッドと冷却水の接する部分に熱境界層(HeatDam)が発生する。熱境界層というのは、ウォータージャケット内の水の、よどみ〃の部分である。ウォータージャケット内はウォーターポンプより送られた冷却水がある速度で流れているが、シリンダーヘッドと接する部分に厚さ1mm前後の、よどみ〃が発生すると、流れがないに等しくなる。するとこの熱境界層は断熱層となって、熱伝導を悪くする。水温計による温度は低いのにエンジンがオーバーヒート気味というのは、このときに起きる。対策としては、この熱境界層を積極的に取り除けばよい。そのことによって熱伝導率がよくなり、冷却性能は向上する。と文字では書けても、技術的解決策はやさしくない。油冷方式にすれば、冷却用としてのオイルを燃焼室上部の表面に勢いよく噴き付けるので、熱境界層の発生がなくなり、放熱性がよくなる。夏の暑い日、扇子であおぐと涼しく感じるのは顔の表面の空気熱境界層を破壊するからだ。そのとき顔の熱が空気に伝わりやすくなり、放熱するから涼しくなる。冬は逆だ。風が吹〈と寒く感じる。体の表面によどんでいた熱境界層は保温に役立っているのである。風速が速いほど体感温度が下がるのは、速いぶんだけ熱境界層が少なくなるからだ。風速毎秒1mで体感温度は1℃下がるという。毎
秒5mだと5℃も寒く感じる計算になる。油冷方式のうま味がここにあった。熱境界層を発生させないように、大量のオイルを高い速度で噴射してやれば熱をどんどん運んでくれ、水冷方式よりもシリンダーヘッドの放熱(冷却)がよくなるにちがいない。水冷式のふたつ目の欠点である冷却面積が小さいことの対策も抽冷式で可能となる。シリンダーヘッドの燃焼室上部のごく限られた部分にしか冷却面積がとれない水冷式に比べ、油冷式は燃焼室やそのまわりを含めたシリンダーヘッド上部のほとんど全部を冷却面として利用できる。その広い面積に、オイルクーラーにより冷却されたオイルを思いっきり噴き付けてやればよい。8カ所のノズルから、1分間最大20リットルのオイルをへツドカバー側からジェット噴射してやる。そして、シリンダーヘッドを冷却したオイルはエンジン前側の2本の太いパイプを通ってオイルパンに戻される。戻されたオイルはオイルポンプによりオイルクーラーへ送られ冷却される。このようにすれば、油冷式は水冷式の持つ欠点を補うことが可能となり、オイルの比熱が水のそれより小さいぶんをほとんどカバーできると判断した。GSX-R750の油冷方式はこのような経過で誕生したのである。抽冷式にしようとの着想から、技術的検討ののちの方針決定までが、ほんの数日という短期間だった。私たちは、それほどまでにGSX-R750の開発を急いでいたのである。実は、泊冷エンジンの発想は婆ちゃんの教えである。、熱境界層を破壊すると熱がよく伝わる"の原理を教えてくれたのは婆ちゃんだから。私は子供のころ風呂焚き当番だった。ゴエモン風呂といって、直径も深さも1mくらいの鋳造製の釜である。ラグビーホールを半分にしたような形で、石やレンガで支えて下から薪をくくる。そのときに婆ちゃんから、「悦夫や、お湯が沸くまで2〜3度かき混ぜなさい。そうすると早く沸くよ」としつけられた。風呂場には長さ1m半くらいの竹の棒が常備されていて、その棒でグルグル回す。これが面倒なので、ある日私はかき混ぜるのをやめてみた。するとどうだ。いつもより薪が3〜4本余分にかかるではないか。早く沸けば製材所にリアカーで薪を取りにいく回数が減るのがわかったから、かき混ぜることを続けた。私は、かき混ぜると風呂がなぜ早く沸くのか、まったく理解できなかった。それから10年くらいたったころ、大学2年生の熱力学の講義で、熱境界層〃の存在を教わった。熱境界層を破壊することで熱伝導がよくなることを知ったのである。婆ちゃんが、帆風呂をかき混ぜなさい〃という意味が初めてわかったのだ。婆ちゃんは偉いと思った。、真冬の水遊び"を始めたとき、最初に頭に浮かんだのが熱境界層の破壊であった。婆ちゃん(先人)の教えはすごいと思った。(続く)

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〜当時の雑誌から〜